5月26日。今朝は時ならぬ雨にやられていた。わたしは鬱蒼とした眠気まなこを見慣れた天井に向けた。昨晩寝る前にベランダで煙草を吹かしていたときには、大気はまだ緩やかに残り少ない4月半ばの生易しい冷気を含んでいたように感じられたのだが、今日はどうやらもう、すっかりと梅雨前らしい。
内側にびっしりとこびり付いた湿気と寝汗を振り払うように布団を蹴りのける。そこまではいいのだがそこからが続かない。勢いこれよしと右肩をベッドから離すがそのまま掃除用ロールかなにかのようにクルッと半回転してうつ伏せに寝そべる形になる。それを何回も繰り返してしまう。惰眠をむさぼりたい欲求と体全体を取り巻くじめったさへの苛立ちのあいだで、それが幾度もわたしを掃除用具にさせていた。
4、5度目かの回転を終え、うつ伏せに落ち着いたところで玄関の呼び鈴が耳をつん剥いた。わたしがそうこうしているうちにカーテンの隙間から部屋を切り取る光の角度の深さはすでに午後の様子を呈していた。枕にうずめた顔の僅かに覗く口の端が微動して、深いため息がこぼれた。
「あぁ、静恵さん。」
おはようございます、と頭をかきながらあくびで開きっぱなしの口から挨拶をひねり出す。
「おはようございますって今もう1時だけど?あなたが指定した店で1時間もまったんだけど?携帯、15回は鳴らしたと思うけど?」
「サイレント設定の上に枕の下に追いやってたんで。すみません。・・・できてますよ。」
わたしは相変わらず整理の行き届いた部屋ね、という静恵の厭味を聞き流しながら玄関廊下に散らかった衣類を足で払いのける。静恵は足場が充分に足りるのを玄関で待ちつつ、自分を一時間も待たせたことに対する不満をわたし自身への小言に繋げた。
「いいかげん表札くらいつけたらどうなの?ここ、わかりづらいったら・・・」
「小学校2年のときから名札つけるの嫌いだったんですよ、おれ。なんででしょうね」
「さぁ、知らないわよ。まぁなんとなく長久保君らしい気はするけど」
わたしは衣類を片付けていた足を一瞬止めて彼女を向き、怪訝そうな口調で、そうですか、と呟いた。静恵はしまった、というよりはまたやってしまった、というような表情を見せた。
「なんとなくよ、なんとなく。ほら、ちゃっちゃと――」
「もう大丈夫ですよ。」
静恵の言葉を遮ってわたしはどうぞといいながら彼女が通るための廊下半分ぶんのスペースを肩をずらして空けてやる。はいはいという溜め息まじりの静恵の小さな声が狭い廊下を通っていった。
わたしの借宿は吉祥寺の中道通を一本小路に入ったところにある。築何年なのか、契約のときに一通り書類に目を通しただけなのではっきりとは覚えていないが、錆びれ具合と整い具合からみて恐らく12、3年と言ったところだろう。2階建てで横並びに長く、わたしはその2階の一番左奥に住所を構えていた。表札をつけないことに特別意味はなかった。ただ今更面倒くさいというだけだった。
冷蔵庫から缶コーヒーを2本取り出し、一本を彼女にわたしてわたしはマットレスしかないベッドに腰掛けた。1DKのこの部屋に椅子などという小洒落たものはない。ベッドに部屋の3分の1は占有されていてその隣に小さなテーブルがひとつ。テーブルを挟むようにして小型テレビがパ・リーグ中継を流している。どれもみな腰の高さは超えない水準に配置されていた。彼女は散らかった棚の中から座布団を漁り出してそれを適当に床へ放り投げ座った。
まったく、と静恵は切り出した。
「自分の原稿くらい自分でもっていきなさいよ。わたし、別に宅配屋じゃないわ」
「すみません、でも神保町ですよね。遠くて。それになんだか好きにもなれないところです」
「乗り換えが面倒くさいだけでしょ。あなた中央線一本で行けるところ以外とんと行きたがらないんだから」
「今日は月曜ですよ。乗り換えなんてするもんじゃないです。」
静恵は小さく溜め息をつきながら腰をあげた。それだけでわたしには彼女がカーテンを開けて換気するつもりなのだろうということが伝わった。玄関にいたときからおそらく部屋の湿気にしかめっ面をしていたようだった。
再び彼女が床に腰を下ろしたとき、黒のタイツを履いているのが目にとまった。
「今日は?」
と訊ねてみた。
「生理よ」
と軽い答えがきた。
開けられたカーテンの外の空に目を移した。雨は止んでいた。静恵が微動すると嗅ぎなれたの香水の匂いが立ちこめた。止んでしまった雨の匂いのようだった。
「締め切りの度にいちいち使いに寄越さないで。わたしだって暇じゃないんだから」
「嫌々っていう感じはしませんけどね」
「・・・今日は生理だって言ったでしょう。とにかくたまには自分で持っていきなさいよ」
「今日は月曜ですから」
わかったわよ、そういいながら静恵はわたしが仕上げた原稿を鞄に入れ、代わりに書類を数枚出して机の上に放り投げた。
「次の締め切りは3日後ね。あ、あとこれ、わたしの。600字くらいでまとめて。これ・・・は明日までなんだけど、わたし今日これから取材を3つ入れてるの。ちょっときついから適当によろしく。」
「何時から?」
「3時」
「俺に12時に会う約束をしといて?」
「そうよ」
「3時間も一緒に缶コーヒー飲んでるだけのつもりだった?」
「別に」
「・・・生理ねぇ」
「そうよ、しつこいわね。今日はもう帰るわ。じゃよろしくね」
ドアが半閉まりのままハイヒールの音が遠ざかった。
相変わらずだなと思いながら、わたしは玄関のドアを閉めるために腰を上げた。
しばらく日ハム×ロッテ戦をみたあと、昼食の買い出しのためわたしは家を出た。ことさら午後の中途半端な時間のためしっかりとした食事をとる気にはなれなかった。わたしは歩いて2分とかからない中道通りのセブンイレブンへ向かうことにした。
月曜の午後だ。いよいよ高さを上げていく太陽もまばらな人通りもたまに低速で通り過ぎていく車のガソリンの匂いまで、すべてが胸糞悪かった。いったいこの世の中には月曜をいい気分で迎えている人間がどれほどいるというのか。10分の1未満、いやもっと少ないかもしれない。なんだって日曜ってやつは終わってしまうのか、労働に駆り出されていく人々の背中はわたしに絶え間ない閉塞感を覚えさせる。それが少しばかり伸ばされたものでもだ。
わたしは2年前まで留学していた上海の人たちの顔を思い出した。排ガスで汚染された空気。ところどころで土埃をあげる舗装されきっていない道路。すれ違う人すれ違う人、皆それぞれ疲れていたり不機嫌そうな表情を晒した。そこにちょうどこの時期には道ばたで売り残れた果物の腐敗臭が混じり始める。悪くない光景だ。浮かない面持ちには荒れた景色がよく似合う。いまわたしがすれ違っているこんな窮屈そうな顔たちがなぜ完璧なコンクリートの上をいそいそと闊歩しているのか。それがますますわたしをイライラさせた。
外回りの営業も、道路の舗装業者も、太陽も、いますぐ全員前にでてこい、ぶっとばしてやる。
そんな気分でコンビニまでの2分を歩いた。
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